昭和五十七年三月三十日 朝の御理解
御理解第四十五節
世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりする事はないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。
神様に喜んで頂けれる信心ということが云われます。御道の信心は親切の心があれば人が助かるといわれる。親切とは親が子を思う切々心。そういう切々心を持って、人のためにでも尽くさせてもらおう。というような心がけにならせて頂くと、おかげが受けられる。
様々に喜んで頂けるような心の状態を頂いて、そして神様に喜んで頂く世な、御用をさしてもらいたい、そういう人にもなりたい、とまあ、願うわけでありますが、信心の教えを云うものは、ま、みんなそうだと思うんです。
様々な手だて、ある人は例えば、富士山頂を目指す。富士山に登るというても、四方八方から、登る道はあるのである。まあ登りついたところは、つく所は同じだというふうに云われております。確かにそうなんだけれども、神様に喜んで頂くということの様々な手だてとか、道はあります。
云うならば、親切心と、今云う、又はここで今云われてます、ま、信心の初歩の方に必ず私はもうしますのですけれども、親先祖を大切にせよね。いわゆる親に孝行せよ、親が喜んでくれる、又は御先祖の御霊様達が喜んでくれるような、ま、心がけにならしてもろうて、それを実際の上にま、供養をしたり、又は親の心に添おうとする心が、親先祖を大切にするということであるね。
確かにそういう神様に間違いなく喜んで頂くというような、その生き方から必ずひとつの天地との通う手だてというか、ルートが生まれてくる、そのルートをたどってま、私共の幸福と云うか、幸福の条件がまあ足ろうて来るわけでしょうけれども、合楽で云われる信心、これは人間の幸福の条件の全てが足ろうといわれるね。ただ健康になりました。お金に不自由せんようになりました。ね。家庭が円満になりましたというようなおかげだけではなくてもね、幸福の条件というものが足ろうてくる程しの云うならば、私は教えを頂いとるのが、合楽だと主卯です。
いわゆる合楽理念なんですね。そりゃ、様々な宗教があったり、なら、金光教の信心もま、過去百年の信心を思うてみてですね、様々におかげを頂いてきたね、けれども、その神様に通うからこそ、まあ、おかげになったわけですけれども、その神様に通うおかげが部分的な、云うならおかげではなくて、人間の幸福の条件の全てが足ろうね、全てが足ろうような在り方ね。そういうおかげの頂けれ留道を合楽では説くのです。
ですから合楽理念の基づけば、云うなら、世の人のための事でも、ま、折れたり思えたりするようになる。親も大切にせずにおれなくなってくる。先祖もいよいよ大切にお祭りさしてもらわずにおれないという心が、まあ段々できて来るわけですけれども、ね、確かにそういう心がけになるとおかげを頂きますけれどもね、それが全てではない。
今日の御理解を云うならば、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれると。私は此の三宝様ということを、まあ、一番大切なものね、それをま、合楽では、どういうふうに申しますか、というと、神様のお働きそのものを踏みにじらないようにせよと説くのですね。
それをま、合楽ではね、どういうふうに申しますか、というと、神様のお働きそのものを踏みにじらないようにせよ。と説くのですね。どんなに親孝行な人であっても親切な心の強い人であっても、成る程それで細々とした天地のひとつのおかげのルートができましょうけれども、いよいよ絶対間違いなくしかも大きなルート、云うなら人間の幸福の条件がね、足ろうだけでなく、あの世にまで持っていけれるという御神徳の頂けれる手だてが合楽理念に説かれてあると思うんです。しかもその気になれば誰でも頂けるね、火の行、水の行というのじゃない。 昨日石田先生から又、絵はがきのようと、まだよく分かられると思うけれども、誰か読みつけた人が読んでもらおう。
ガンジーの断食は四十日がめどであった。わが友、壇一雄は呼子で二十七日、私はビルマに出征中、一ヶ月と二ヶ月飲まず食わずで十歩歩くのがやっとであった。
雨期には壕の中で腰まで水浸し二ヶ月。弾丸砲雨、火焔放射機、火の行、水の行の洗礼を受けた。戦争は天災か人災か、人は生きるために堪える。
愛する人のために。
家業とは人を助けるための業である。釈迦は七年苦行をしたが悟れなかった。表行をやめた時、悟った。しかしそれは一切無。
般若心経には無の字が二十六字ある。戦争に怨みを残したのがいけなかった。長い事かかって、私は合楽の「和」の門に入った。
画家、古賀耕二が苦行している。金光教教典を送った。
これはあのう、先生が宗教に対する、まあ造詣が深いということが、これを見ただけでも分かりますね。例えば、インドのガンジーが四十日断食をしたんだそうですね。お釈迦様は、もう大変な修行をなさったけども、悟れなくて、その修行をやめた時に分かられた。般若心経の中には、無という字が二十六字あると。
結局そういう云うならば、あのう、例えばなら、仏教なら、仏教というと無になるという。それが二十六も般若心経の中にあるというふうにですね、そういう例えば無にならなければならないと云ったような、又は、断食を四十日も続けねばならないとか、ま、色々ま、修行のまあ、様々が此の断片的にあるわけですけれども、そう云うことをしなければ、人間がそう云うことをして悟らなければ、そのできないという宗教やら、そう云うことでなからなければ、人間の幸福が得られないといったようなものでなくてね、しかもそれでなら、人間の幸福の条件が足ろうような天地とのルートが生まれたか、というと生まれてないということなんですね。
無になるということなんかもそうです。だから教祖もね、我情我欲を離れて説こうおっしゃいますからね、ただその欲をはなせとはおっしゃってない。そこを
合楽はそこをとらえて人間が人間らしく生きる手だてというふうに、無にならなくてもいいのだね。
昨日嘉朗さんのところの由喜子さんが昨日お知らせを頂いたのに、桜井先生の奥さんに素晴らしい着物を着せてあげようとしておる。ところが下にはこう、汚れたシャツやら、着物やらばいっぱい着とんなさるけん、それ脱ぎなさらなければ、このよか着物が晴れませんよ、ち、云うけれども、いいえよかよか、この上から着せちくれち云いなさるから、この上から良い着物を着せて帯をしたけれども、格好が悪かった。という御夢だったそうですね。
これはやっぱりね、自分のその汚れた着物やら、シャツやらは脱いで、さばぁっとして良い着物を着らなければいけませんよ。それをなら、真っ裸になれ。もうとにかく、家も倉も財産も全部離してしまわなければ、無にならなければ、おかげが頂かれんという意味じゃないです。
金光大神はいわゆる、我情我欲を離れよとおっしゃる。自分の思い、自分の・・・いわゆる我がついた情、我がついた欲はいけないよと。だから云うならば、我を取るということ。我を取ってそこに、スキットして、着物、自分がこれを脱ぐのが嫌だという。これは自分の我なんですね。
そこからね、いわば合楽理念と云う素晴らしい、なら、着物を着ることによって、すきっとした、云うならばおかげ、云うなら、人間の幸福の条件がね、ひとつひとつ足ろうてくる。
しかもその心の状態が豊かに大きくなるということは、もう限りがないのですから、これが豊かに大きくなっていけばいくほどに、そのおかげは伴うてくるというのが、ま、合楽理念に説かれるわけですね。神様に通うとか、通じるとかということはです。様々ななら、こういう表行的なね、自分が空しゅうなるとか、無になるとかね、断食をするとか、火の行水の行をするとか云ったような事からでも、云うならば、入られんことはないけれども、それは、もう、小さい小さいルートであるということ、道であるということ。
天地ともそのまま交流する。そういう大きな手だて、それを合楽理念で説くのです。それはどういう時かというとですね。三宝様を踏むような事をするなということを説くのです。三宝様ということを、私は一番大切なもの、宝のようなものというふうに、まあ皆さん聞いて頂かんならんと思いますが、その事の第一は何かというとね、神様のお働きを踏みにじるような事をしないという事なのだ。ね。
どんなに断食をしても、火の行、水の行してもですね。又良い、本当に親孝行しても、親先祖を大事にさせて頂いてもです、成る程神様に通ずる何かがあるでしょうね。だからおかげ受けてきたんですね。
けれどもそういう事じゃない、天地の心を心としてね、分からせてもろうたらね、神様の働きそのものを大切にすると云う生き方ね、成り行きを大切にする、尊ぶということはそうなんです。神様の働きをもうそれこそ、踏みにじるような事をするからおかげにならんのです。本当のおかげに。
神様の云うならば、働きそのものをです、そりゃ、痛い事もあろう、痒いこともあろうね、恥ずかしい思いもするような事があるかもしれん。神様の働きがお互いの上に起きてくることの中にはね、けども、その一言一言をです、神様のお働きと分からせてもらうて、それを大切に頂いていく、ということ。
私、今日は三宝様踏むなということをも、一番おかげの受けられる、お徳を受けられる大切な大本を踏みにじるような事をするな。神様の働きそのものが、を
踏みにじるようなことをするなということを、今日はま、強調してるわけですね。如何に成り行きを尊ぶとか、大切にするとかということが大切かね、三宝様踏むと、三宝様踏むと目がつぶれるというが、神様の一番大切なものを踏みにじるような事をしたんでは、云うならば、肉眼を於いて心願を開けとおっしゃるようなおかげ、そういう信心の目も開けて参りません。
いつも我情我欲で、どうぞ右になりますように、左になりますようにと、自分の我情、自分の思いを神様にのべ、貫けたところで大したことはないです。ね。
どうぞ今日も商売が繁盛しますように、どうぞ集金がよりますように、どうぞ病気が治りますように。それを云うなら、逆たんぼうって拝むというかね、火の行水の行さして頂いてです、そういうなら、おかげがたとえ成就してもそれはもう、それこそ大変な小さい小さいまあ、おかげの道であり、ルートでしかないということ。
合楽がまあ、云うならばです、まあ、云うならば、真善美に足ろうた、しかも小から中、中から大というふうに、段々これからおかげ受けていくことでありましょうけども、合楽の場合は、いよいよも、この道が大きく広くなっていくばっかりです。
一番肝心なところの神様の働きそのものをも、とにかく、大切に尊ばして頂く生き方をいよいよ身につけていくからですね。そこには自ずと親孝行の道も、親切にならなければならない道も、和賀心。いわゆる和らぎ喜ぶ心も、そういう中から生まれてくるんです。ね。
こりゃ、もうまあ、いうならばね、合楽の信心のまあ、根本ですね、根本のところですから、どうでも皆さんがね、そのいよいよ成り行きを神様の働きと分かること。
そしてその働きそのものを踏みにじるような事はせずに、それをおし頂いていくという生き方こそね、三宝様を踏むという事じゃなくて、神様も又、私共の上に丁重なおかげを行き届いたおかげをね、いうなら人間の幸福の条件の全てが足ろうてくるおかげを下さる事になるのです。 どうぞ